Hudson(New York)

ハドソンリバーなら聞いたことのある響きだったけれど、ハドソンという街の名は聞いたこともなかった。

それどころか、ニューヨークと言われればテレビなどで目にするマンハッタンくらいしか知らなかったし、漠然とどこもかしこも大都会なのだろうと思い描いていたのだった。

けれど地図帳を開いてみれば、北はカナダのモントリオール近郊から西はトロント方面まで、なるほどニューヨーク州とはこんなにも広大なのか。

初めてひとりで飛行機に乗ってやって来たニューヨークは、ちょうど春の訪れを感じる頃。

空港からハイウェイへ出てみると、道端の此処彼処に水仙や木蓮の花が咲き乱れていて、わたしは日本でも馴染み深いそれらの花々をこちらに来てまで眺めていることに不思議な感覚を覚えていた。

通り過ぎていく思い描いたままの摩天楼の景色と日本では目にすることのない大型過ぎるトラクターとの並行走行に開いた口も塞がらないまま、空港から二時間半ほどでハドソンという街に到着する。

アンティークショップが建ち並ぶことでも有名なワーレン・ストリートと呼ばれる街のメインストリートは、どこか古き良きアメリカを描いた映画で見たような懐かしい景観で、当時エドワード・ホッパーに惹かれていたわたしにとってはどこを見ても興奮が収まらなかった。また、都会にはない心地のよい距離感とゆったりとした時間の流れをすぐに体感することもできた。

夜は街外れにある日本料理屋で鍋焼きうどんを食べ、あまりにも長く続く風景の余白と21時頃に夕暮れを迎える大き過ぎる空に飲み込まれるようにして、ハドソンから更に9マイルほど離れた場所にある滞在先まで戻る。そんな日々を何度か繰り返していた。

街と滞在先の中間地点にあるガスステーション(コンビニのようなもの)で買い物をしたらコーヒーをおまけしてもらえたこととか、バーまで出かけて行くと身分証明書がないからと入店を断れ渋々9マイル戻ったこととか、真夜中の街外れで怖い女性に声をかけられたこととか、そのどれもが自分の過去であるのに遠く離れた映画の中の出来事みたいで、それらは体験して残された過去ではなく、今ではどこか自分の作り話のようにも思えることがある。

次にいつ訪れることができるかもわからない広いアメリカの小さな街に、未だにわたしのことを覚えていてくれる人達がいて、きっと変わらぬまま残り続けている風景がある。

それを思うと、なんとも不思議な気持ちになって、どこかどうしようもなく悲しい。

Hudson(New York)